<コラム14>


日常の中の共感力:カール・ロジャースの思い出

村山正治

1はじめに

 野島編集長の依頼でこの原稿を書いています。

19724月から19738月まで、私は、ラホイアにあるCSPの客員研究員として過ごした。多くのことを学んだ大変刺激的な18ヶ月でした。ここでは、ロジャースの日常生活における共感力のことをいくつか書いてみたい。

 

 九大の吉良安之さんが中心になって、有名は「グロリアと3人のセラピスト」のうちロジャースの面接を体験過程スケールセラピスト用により分析したことがある。この研究で学んだことは、ロジャースもいつも深い共感ばかりしているだけでなく、浅い共感も多くしている事実を学んだ。教科書に共感が大切だと書いてあると、1時間中、深い共感ばかりしていないといけないと思い込む人が多い。この研究は、そうした思い込みを解くいい解毒剤になる。

 

2マイクの調整中

 ロジャースが私の前に姿を現したのは、ロジャース教授として1961年、夏の京都大教養部だった。ロジャースの初来日で、佐藤幸治先生の京大アメリカンセミナーの招待だった。「教授」は、てかてかのはげたあたま、ポパイを連想させた太い腕とたくましさ、同時にやや内股歩きのしなやかさと柔軟性が印象に残っている。私たち院生が数名録音の準備をしていたところ、「コンコン」と教授がマイクをたたいてわれわれに協力してくれるではないか。こんな講演者は初めてだとおもった。

 

3ラホイヤのパーテイで

 渡米して間もないころ、研究所の野外パーテイがあった。ご存知のように、ご馳走中心の日本のパーテイと違って、アメリカのパーテイては、お話が料理代わりである。英会話にお弱い新米外国人にはきつい場である。なんだか困ってしまっていた。尚子と日本語ではなしたり、手持ち無沙汰でした。そのとき、ふと気がつくと、ロジャースがそばに来てビール片手に飲んでいた。「君、大丈夫ですか」など声をかけられた記憶はない。しかし、抜群な安心感を感じたことも確かである。これが寄り添うのロジャース流かと思った。

 

4「正治、君も編集委員にね」

 あるときロジャースからよばれた。新しく「パーソン・センタード・レビュウ」誌を創刊するので、日本から編集員を推薦してほしいとのことだった。ロジャースは、日本女子大の柘植明子さんをまず上げた。私は異論がなかった。日本人で初めてシカゴ大学時代のロジャースのところに留学した人である。後、数人上げたところで、ロジャースが「正治、君もね」といわれてほっとしたことを覚えている。本当はなりたい自分がいたのである。かくて私は編集員になったのである。