<コラム21> 2014.6

EGと私

下田 節夫 

 私は、BEGに深く惹かれている。それがどういうことなのか、考えることがよくある。今日思ったのは、次のようなことである。日常生活、私たちは人とのかかわりを通して生きている。その際、お互いにいろいろと問題を抱え、それぞれの限界を持ちながら交わっている。いわば、そうした限界をお互いに許し合って生きているといってよいだろう。

 

 他方、BEGではどうか?思ったのは、BEGでは、日常の人との間で引いている線を一旦カッコに入れて、つまり普段許し合っている関係という枠を緩めて、それぞれの可能性をもう一歩生きてみよう、ということではないか、と。

 

私は常々、BEGの本質はその「非日常性」にあると思っているのだが、上に書いたことは、それによく一致すると思った。つまり、BEGは、それぞれの可能性を試してみる稀有な機会であり、それを保障してくれるのが、その「非日常性」であると思うのだ。

 

実は、私自身、これまでメンバーとして参加したBEGで、文句なく「これは素晴らしい」と感じるような体験は、多分したことがない。それなのに、全く懲りずにBEGの実践を続けているのは、何によっているのだろうか?このことについてもよく考えるのだが、今思っているのは、私の中に、いわばBEGの「原イメージ」のようなものがあるのではないか、ということだ。それをできるだけ生きることを目指して、毎回BEGに臨んでいると思う。別のところで₁書いた「北極星」がそれに当たる。

 

ここで「可能性」と言っているのは、人が自分自身の内なる世界に触れること、その体験を人に伝えようとすること、人のそうした世界に触れたいと思うこと、などである。それが可能となるのは、深く安心して居ることのできる場においてだ。ファシリテーターは、そういう場を作る上で、限りない影響力がある。恐ろしいことだと思う。そのためにできることは、ファシリテーター自身が、自らのありのままの世界をその場に委ねること以外にない、と思っている。それを体験したくて、私はBEGの実践を続けているのだと思う。

 

【註1】拙論(2013)「グループなるものについて」、伊藤義美他編『パーソンセンタード・アプローチの挑戦』(創元社)所収